天正17年(1589年)6月5日に伊達政宗は、
摺上原の戦いで蘆名勢を破り、その勢いで6月7日頃、湊にあった鵜ノ浦城を攻めました。
このとき鵜ノ浦城主の鵜浦甲斐守が、城の水利が豊富と思わせるため米を山頂から流して滝があることを偽装し、敵方にたやすく攻め落とせないと思わせたとの伝承があります。
しかしながら、夜間に猪苗代湖側から船で上陸した伊達勢に不意をつかれ、落城しました。
伊達政宗の侵攻から約300年後の戊辰戦争(1868年)で湊の地に再び戦火があがりました。
幕府側であった会津藩を攻略するため、西軍がやはり猪苗代方面から進軍し、これを迎え撃つ白虎隊と戸ノ口原で戦闘になりました。
装備と人員数が足りなかった会津藩は退却し、飯盛山での白虎隊の自刃の悲劇につながっていきまます。
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