寛永20 年(1643)保科正之が会津藩主になると、寛文7年(1667)には、大町四ツ角を起点として会津五街道が整備され、一里(約3.93キロ)毎に一里塚が整備されました。
湊町には赤井の穴切、下馬渡と上馬渡の中間、原の五輪壇、高坂に一里塚が築かれ、今でも穴切と高坂に残されています。
寛永20 年(1643)保科正之が会津藩主になると、寛文7年(1667)には、大町四ツ角を起点として会津五街道が整備され、一里(約3.93キロ)毎に一里塚が整備されました。
湊町には赤井の穴切、下馬渡と上馬渡の中間、原の五輪壇、高坂に一里塚が築かれ、今でも穴切と高坂に残されています。